私がマイペースだったという話
4月から和歌山市の学校で働くことになりました。
2年間、教員という仕事をやってみて、今思うことを書いてみようかなと思います。
【思いのほか、「協調性」が必要な仕事だった…。】
これについては私の思考が本来あるべきところとずっと平行のまま交わらなかったです。
たとえば、文化祭の出し物が1時間のホームルームで決まりそうになかったとします。
私は、「とことん待つタイプ」です。文化祭に間に合えば、(もちろんクオリティは経過時間と比例して低くなるのでしょうが)その1時間で決定しないということに、問題はないと思っていました。
私の中で、文化祭は生徒のものであり、文化委員がリーダーなのだ、という認識が強くあるからです。
他には…
帰りのホームルームはいつも最後でした。
私が「何も言わずに待っている」からです。
副担任の先生は私の代わりに入った時、とても苦労されていました。私とは正反対のタイプでした、すごくストレスだっただろうなと思います。
その他…
掃除当番はチーム内で役割を相談して決めてもらっていました。
席替えは学級委員、朝夕の礼拝、本来は教員が進行するところも係の生徒に任せていました。
これらは異例のことだったそうです。
でも私は当たり前に「できるやろ」と思っていました。
それは生徒に「制限時間」を設けていなかったからだと思います。
生徒が自分で考えて、気付いて動く、その練習をするのが学校だと考えていたので、時間はあまり重要ではありませんでした。
(生徒には、「あいつ、仕事してないやんけ」と思われていたと思いますが…。)
教員ができることで、大切なことは、生徒を急かすことではなく、「生徒に見本をみせること」「方法を伝えること」だと思います。
そして少しずつ(ほんとに少しずつ)「見本ができる人」「教えられる人」が生徒の中に出てきます。
そして、
その人を頼る。笑
がっつり頼る。(たまに自己犠牲さんがいますのでバランスは考えます。)
そして、生徒だけでも運営できるクラスになればいいんじゃないかなぁ〜(軽め)と思っていました。
実はこの考えがあんまり一般的ではなかったようです。
生徒都合だけではなく、学校都合も考えなければならない。いや、むしろ【学校都合>生徒都合】
うーん、でも私は【生徒都合>学校都合】だった。
そのギャップをひしひしと、日々感じていました。
「本当にやりたかったことは、どこでできるんだろう」
まだ解決できそうにない私の今1番の問いです。